狂気のスター
吉 澤 稔 男
キチガイというのは、当節では差別用語であって、使ってはいけない言
葉になっているらしい。だから、実際耳にする機会もめっきり少なくなっ
た。それでもこの世にキチガイがいなくなったわけではない。キチガイを
精神病者と言い換える詐術を敢えて行うとすれば、むしろ精神病者は増え
ているというのが私の実感である。
金属バット殺人事件、オウム真理教の一連の事件、神戸の中学生による
児童虐殺事件、そして今全国で多発するキレた中学生たちによるナイフ殺
傷事件等々、いずれも常軌を逸した人間たちによる凶行である。また、こ
うした事件を起こすには至らないまでも、精神を病んだ人間の数はますま
す多くなっている。これが世相の反映だとするならば、世はまさに世紀末、
狂人の跋扈する暗黒時代と言わねばなるまい。
さて、そこで今回は狂人にしてスターとなった稀代の一人物についての
話である。
狂人は名を蘆原金次郎といった。手元の資料によれば、嘉永4年(1851
年)の生まれとある。長じて櫛製造職人となるも、生来小心で癇が強く、
酒好きの酒乱であったという。その金次郎が発狂したのは、懲役とそれが
もとの離婚が重なった24歳の頃。突然大言壮語を発して、意味ありげに諸
官庁やら九条家やらを頻々と訪れるようになったという。
明治13年6月12日発行『東京自由新聞』の雑報欄に次のような記事が載
った。
「去る六日千住の電信分局へ一人の男が飛んで來て拙者儀は何を隱さう
正三位勅任官勳一等左大臣蘆原將軍藤原の諸味なり今日眉を燒くの大事
件あつて至急支那の李鴻章へ電報を打つて貰ひ度と四邉を白眼で申立て
しを該局の者は吃驚して事實如何と最寄の分署へ照會せしところ兼て有
名なる下谷金杉村蘆原金次郎と云ふ狂人賤生」
このとき将軍30歳。発狂して6年、すでに有名人となっていたことが知
れる。
それから2年後の明治15年10月、将軍ははじめて巣鴨病院(一般には巣
鴨脳病院と称されていた)に収容された。前年の7月に天皇直訴未遂事件
を起こしことが原因であった。その後一時脱走したが、傷害事件を何度か
起こし、そのため明治18年再収容され、これ以後昭和12年2月に至るまで、
実に半世紀以上の長きにわたる癲狂院暮らしが続く。つまり、人生の半分
以上を精神病院で過ごしたわけだが、実は将軍がその本領を発揮するのは
病院収容後のことなのである。
狂人もひとたび病院に収容されてしまえば、世間に実害は及ばない。そ
れかあらぬか、当時のマスコミは折りに触れて将軍との会見記事を載せた
という。「(病院に収容されて)以来六十余年間、彼はたえず新聞種にな
る。新聞記者がネタがなくなると巣鴨病院に御託宣を伺いにいくのである。
そのたびにまことにツボにはまった意見が飛び出してくるのだから、やめ
られない。一面の政界記事を三面まで裏返し、こっぴどく笑いのめしてい
たも同然であった」と種村季弘は書いている。
徳川夢声なども、「明治三十八、九年の頃、すでにその名が芝居に脚色
されるほど、大衆的名声があったんだから、現存の、あらゆる名士のうち、
その人気の永き点において、この〈将軍〉に匹敵する者は、先ずあるまい。
彼こそ或意味において吾が日本の〈名士〉中の名士である。……中略……
明治三十三年巣鴨脳病院の王様になって以来、今日に至るまで、彼の地位
は厳として動かない。某々総理大臣の名は内閣瓦解と共に新聞から消えて
も、葦原将軍会見記事は、毎年毎シーズン出ないことはない」と述べてい
る。
どうやら将軍は発狂して名声を得、今で言う評論家に仕立てられたらし
い。現代の凡庸でただ小賢しいだけの評論家と違って、将軍は歯に衣を着
せることなく自説を率直に語る。言論の自由など保障されていない時代に
あって、官憲をも畏れず天下国家を論じ、時には権力に悪態をつき、いさ
さかも動じるところがない。それはそうだ。正真正銘の狂人なのだから、
その言論に対して責任を追及する者もいないし、権力側も将軍の発言につ
いてはキチガイの戯言として無視するしかなかったのだ。新聞は巧みにこ
れを利用し、将軍の口を借りて公然と権力批判を行っていたわけである。
仮にジャーナリズムが将軍の言行を無視し、封殺したとしたらどういう
ことになったであろうか。おそらく将軍はありふれたただの狂人として、
精神病院という文字通り閉ざされた空間に放置され、世間から脚光を浴び
ることもなく孤独な生涯を終えたことだろう。
早発生痴呆症というのが将軍に与えられた病名であった。現代の精神医
学では精神分裂症ということになるのだろうか。いずれにしても、ごくあ
りふれた症例であり、専門家にしてみれば、大して興味のわく対象でもな
かったらしい。要するに、どうということもないただのイカレたオヤジの
ひとりにすぎなかったわけだ。
だが、一般庶民やマスコミの受け止め方はまったく対照的であった。た
とえ将軍がありふれた精神病者のひとりにすぎなかったとしても、庶民や
マスコミにとって、将軍は狂気の仮面をかぶった道化というユニークな存
在であり、スターなのであった。現代の作為的につくられたスターとは違
い、将軍には殊更スキャンダルやゴシップやハダカで名声の維持に汲々と
する必要もなかった。将軍はただ率直に自説を述べるだけでよかったので
ある。ただそれだけでマスコミが自然に寄って来て、民衆もまた好意的に
その発言に耳を傾けた。スターのスターたる所以である。かつて徳川夢声
をして「名士中の名士」と言わしめ、また反骨のジャーナリスト宮武外骨
をして「現代の軍人中、操志堅實主義一貫、以て五十年來其信條を枉げざ
る者は、蘆原將軍たゞ一人である、嗚呼エライ哉蘆原將軍」と言わしめた
のも道理である。
さて、その将軍の発言だが、たとえば大正15年5月28日付けの『時事新
報』に次のような記事が見られる。
「内閣改造問題の將來を尋ねると將軍曰く『政黨は太政官制を布き、若
し命令に叛く奴があつたら他國に流罪にせよ、研究會の木や近衛は食
糧係にすればよい』 軍備縮小に就て將軍の意見は『飛行機が發達すれ
ば大砲をやめる丈だ、それから歐州の政局は豪傑張りの佛國と女張りの
英國とが印度のシンガポールを取りつこする云々』」
かくのごとく将軍は時事問題に精通していた。つまりこれに強い関心を
抱いており、新聞雑誌の類もある程度は自由に読むことができたものと推
察されるのである。
なるほど、特別待遇と言えば聞こえはよいが、実際のところ読みたいと
いうものを読ませなければうるさく騒ぎ立てるから、それで病院としても
静かにさせておくために将軍に新聞雑誌の閲覧を黙認したのだろうと思わ
れる。気位の高い将軍は、入院して年月を経るうち、将軍あるいは内大臣
の位から太政大臣の位へと出世し、ついには蘆原国元首にまで位を極めた
お方である。だから、病院の偉い先生といえども、将軍にとっては単なる
家臣、家来にすぎなかった。家来が主君の命令をきくのは当然のことであ
る。将軍は文字通り病院の王様なのであった。王様だから、これにさから
える者など誰もいない。その所為か、巣鴨病院から松沢病院に移ってから
も、将軍は相変わらず特別待遇で、松沢病院第二病棟の9畳敷きの一室を
与えられ、そこに紙製の軍旗7つ、正装軍装1着、山高帽子、シルクハッ
ト、軍扇、サーベル、大礼服の鳥毛帽子などを得々として並べていたとい
う。病室はさしづめ大本営といったところか。
ちなみに入院中の将軍の活躍について種村季弘は次のように書いている。
「彼は、日露戦争が勃発すると、国運の危急をを救うために、木綿切れ
と糊を固めて、長さ二尺五寸直径五寸ほどのハリボテの大砲を一人で作
り上げた。夥しい勅語を濫発して、ロシアの陸軍大臣に太政大臣蘆原将
軍の許へ参内せよと命じたり、露国皇帝が陸海軍を廃止し、帝室費三千
万円を献上したうえ日本天皇陛下に世界万国を属国として捧げる旨の外
交文書を勝手に作成したりもした。
彼はまた全世界の金を一手に製造するために、道灌山に大蔵省と造幣
局とを移し、巨大な紙幣印刷機を作って一時に千億円をこしらえようと
企画した。東京帝国大学のかわりに蘆原国大学堂を建てようとした。朝
鮮に渡って米作技術を改良し、一年に十回米が穫れるようにしようと思
い立った。ついでに満州は広いから世界の公園にしてしまうべし。列強
や明治の元勲たちにも平気で勅令を下した」
──まさに天衣無縫、向かうところ敵なしである。もちろん、こうした
将軍の企みがすべて実現したわけではない。むしろほとんどの計画が頓挫
し、雲散霧消したと言ってよい。だが、将軍はまったくと言ってよいほど
挫折することを知らなかった。伊藤博文に小遣いをせびって、それが無視
されたとしても、将軍は根に持つようなこともなかった。時の権力に対し
ても、将軍のとり続けた姿勢は同じ反権力でも左翼の悲壮な敗北主義とは
異なり、実に威風堂々としたものであった。
また、将軍は誰とでも気さくに会見され、気前よく勅書を手ずから交付
されたという。再び夢声翁の文章を引こう。
「先日談譚聚団の同人三名が、松沢病院に出かけ、親しく将軍に面会の
光栄に浴しおそれ多い一書を頂戴して来たが、その報告によると、将軍
はその時悠然と将棋を指しておられたそうだ。お相手は秘書官の栄位に
あるもので、これは将軍自ら数多き患者中より、ごバッテキになったも
のだという。
──満州国から特使が参りました。
という紹介で、三人は恐る恐る伺候したところ、殊のほかゴキゲンで
直ちに自ら起って、積み重ねたる御下命書の中から、三枚を無造作にと
って、一枚ずつ与えられた。いずれも「内閣ノ組織ヲ命ズ」とか、「金
一億円支給ス」などという重要極まる密書である。
面白い事は、一書を賜わると同時に、掌をひろげヌッとお出しになる。
かねて係からいわれた通り、三人は十銭ずつ捧呈したところ
──うむ、ヨロシイ、帰れ。
と忽ち御暇を賜わったそうだ」
かくて蘆原将軍の人気はいよいよ高まり、晩年には団体見物やら修学旅
行の生徒たちまでもが松沢病院に押し寄せたほどであったという。そのた
めもあってか、勅書は大量に生産された。こうなるともう将軍一人の手に
は負えない。従って、勅書の多くは秘書官の代筆したものであったと言わ
れている。
ところで、蘆原将軍はほんとうに精神を病んでいたのであろうか。フロ
ックコートに手製の肩章や金モールをベタ金に飾りつけ、胸には所嫌わず
金紙銀紙製の勲章をずらりと並べて紙貼りの大礼帽を被っているその姿は、
確かに異様ではある。だが、これを道化の芝居とみるならば、逆に時代を
批判する明晰な意識が浮かび上がってくる。つまり、将軍が演じていたの
は、明治天皇及び同時代の元勲らのパロディーであったとする見方である。
大衆の野次馬的反骨精神は、こうして狂人蘆原金次郎を道化に仕立て、そ
の反権力的な言辞に喝采を送り、溜飲を下げたのだろう。「このカルニヴ
ァレスクな馬鹿王は、幕末のええじゃないか精神を純粋に保存して変節し
なかったために、新政府に気違い扱いされたのではないかと勘ぐりたくも
なるくらいだ」と種村季弘も述べている。
こうして明治・大正・昭和と三代にわたり、世間の耳目をあつめ続けた
稀代のスター蘆原将軍は、昭和12年2月、88歳の長命を全うしてこの世を
去った。 (1998.3.23)
☆参考文献☆
『アナクロニズム』種村季弘著/河出文庫
『東京百話 人の巻』種村季弘編/ちくま文庫