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偉なるかな 石井雙石先生
石井雙石私論 7
今回は大陸性について書きたい。「迂闊」がそれに当てはまるが、「大和の心」にも通じてしまうから、こういう区分けなど意味のないことなのかも知れないが、しないと大きすぎて茫洋としてしまい却って書きにくいのであえて試みた次第である。大陸性を内包した印については3号の「山歌野唱}今回の「迂闊」位しか紹介していないので理解できない事柄かなとも思う。しかし、雙石先生の作品の中には大陸性が溢れそうな印が沢山ある。なぜそう感じるのかはこんな次第である。印を学ぶものにとって一番大事なのが小篆であることはかって書いたが、さてその小篆をいかに表現しえたかになると、各家それぞれで名家も多いが雙石先生の場合とう完白によって大きさを、呉譲之から小篆のあやを、趙之謙から妙味を学びそれを渾然一体とした上で、小技によらず常に大道を行く資質を見事に開花させて行き、それが無補刀・握刀の主張につながって行くのだ。かってより一印たりとも小技を弄した作品を見たことが無い。どんな小印でも常に堂々としており、ましてや大印にでもなればその大きさは途方もなく観者に迫ってくる。「種竹斎」「最高裁判所」「子寛」「南極国璽」まだまだいくらでもある。ここには全く小技のかけらもない。畏敬の念をもつ所以である。
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