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新田開発と地名


新(町丁名)の一覧 消えた地名がバス停に残る
新しく生まれた町名 時代を映す、場所、ランドマーク(庶民は命名の達人)


新(町丁名)の一覧

 皆さんはどこの町にお住まいですか?足立区の地名(新地番)から大まかな位置を場所を特定できますか?
足立区では、住居表示法により、昭和39年(1964)7月1日に「足立1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、5丁目」を皮切りに住居表示「新町丁名」が実施されてきました。現在(丁目も含め)260余の町丁名があります。
 昭和30年代、日本中の都市部では、経済が大きく発展し、住宅域、工場、商業域は拡大密集し、町名、地番の混乱が生じ、知人宅を訪ねる際何度も尋ねなおしたり、郵便や配達荷物が遅れたり、間違って配送されたりで困るなど、地番の乱れによって日常生活、経済活動に支障が出てきた為、行政側、経済界、など官民合同で「町名整備」に関して「研究会」「促進協議会」などを設立し議論を重ね、昭和37年正式に「住居表示法」が成立、公布されたのです。
 地名の選考については、地域の歴史、伝統、文化を継承すると言う主旨に則り、地区住民のコンセンサスを得て実施される運びに成ったのです。いざ命名の段になると、すっきりと決まるものは少なく、江戸、明治以来の入り乱れた地名、地番を整理するには、何世代、何百年と愛着のある「旧来の地名は捨てがたく」、「冠」をつけるものが多く出る結果になったのです。心情的には理解出来るのですが、反対もかなりあったようで、反対者は、同じ町名の上に「東、西、北、南」、「上、中、下」、「丁目」が付くようなケースを懸念していたのです。その結果、(便利で合理的)との目的から外れてしまったとの批判もあったのです。


足立区町丁名一覧表

六木   1丁目〜3丁目 谷在家 1丁目〜2丁目
神明   1丁目〜3丁目 花畑     1丁目〜8丁目 皿沼   1丁目〜3丁目
神明南  1丁目〜2丁目 南花畑    1丁目〜5丁目 加賀   1丁目〜2丁目
大谷田  1丁目〜5丁目 六町     1丁目〜4丁目 鹿浜   1丁目〜8丁目
佐野   1丁目〜2丁目 一ッ家    1丁目〜4丁目 椿     1丁目〜2丁目
中川   1丁目〜5丁目 西加平    1丁目〜4丁目 江北   1丁目〜7丁目 
東和   1丁目〜5丁目 保塚町      堀之内  1丁目〜2丁目
谷中   1丁目〜5丁目 平野     1丁目〜3丁目 新田   1丁目〜3丁目
辰沼   1丁目〜2丁目 保木間   1丁目〜5丁目 宮城   1丁目〜2丁目
加平   1丁目〜3丁目 東保木間  1丁目〜2丁目 小台  1丁目〜2丁目
北加平町 西保木間  1丁目〜3丁目
綾瀬   1丁目〜7丁目
東綾瀬  1丁目〜3丁目 関原    1丁目〜3丁目 千住  1丁目〜5丁目
西綾瀬  1丁目〜4丁目 興野    1丁目〜2丁目 千住 大川町
西新井   1丁目〜7丁目 千住 柳町
青井    1丁目〜6丁目 西新井本町  1丁目〜5丁目 千住 寿町
足立    1丁目〜4丁目 西新井栄町  1丁目〜7丁目 千住 元町
弘道    1丁目〜2丁目 本木       1丁目〜2丁目 千住 龍田町
中央本町 1丁目〜5丁目 本木東町 千住 中居町
本木南町 千住 河原町
梅島   1丁目〜3丁目 本木西町 千住 宮元町
梅田   1丁目〜8丁目 本木北町 千住 仲町
栗原   1丁目〜4丁目 扇   1丁目〜3丁目  千住 橋戸町
六月   1丁目〜3丁目 千住 緑  1丁目〜3丁目 
島根   1丁目〜4丁目 千住 桜木 1丁目〜2丁目
竹の塚 1丁目〜7丁目 古千谷   1丁目〜2丁目 千住 関屋町
西竹ノ塚  1丁目〜2丁目 古千谷本町  1丁目〜4丁目 千住 旭町
伊興   1丁目〜5丁目 舎人   1丁目〜6丁目 千住 曙町
伊興本町 1丁目〜2丁目 柳原   1丁目〜2丁目
東伊興  1丁目〜3丁目 入谷   1丁目〜9丁目 日ノ出町        
西伊興  1丁目〜3丁目 千住東  1丁目〜2丁目
西伊興町

足立マップ・施設案内図より


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新しく生まれた町名

江戸、明治、大正、昭和と変遷のあった足立の地に、今までに使われたことが無い、全く新しい地名が生まれました
青井・弘道・中央本町・扇・東和・中川足立)という地名です。
足立」は区、郡名には使われていましたが、町名では初。

青井 1丁目〜6丁目
地名選考の段階では、江戸時代に新田として開発された地であるため、各町村の境界が複雑で、旧二ツ家・四ッ家、小右エ門、五兵衛、西加平、東栗原、五反野北、東島根、伊藤谷北、等が含まれ、町名案がまとまりにくく、旧来の町名からは適当でないとなり、このあたりが「精出耕地」という字名であったため「」より「」、「」より「」をとって「青井」とした。
青は澄み渡った青空、井は尽きること無い湧き水を表し、美しい豊かな土地として、今後の発展を願う気持ちをこめたものである。
昭和20年代までは、青井高校敷地は「人工の池」であり、池の底からモクモクと湧きあがる湧水があり,清流が水路から用水路に出て、綾瀬川と繋がっており、海の出世魚「イナ」が行き来して、池の水面を飛び跳ね、釣りが楽しめた。


弘道 1丁目〜2丁目
地名から学校名が生まれるのが普通ですが、ここは逆、明治11年(1878)創立の「弘道小学校」の「弘道」をとって地名とした。
では「弘道」は、創立時の学区域に水戸街道が接しており、水戸の藩校「弘道館」を頭に入れたものだと言われている.。
中国の「論語」という書物の中にある「道を弘める」という意味。教育関係でよく用いる。兵庫県出石にも学校名であるという。
しかし、皮肉にも「弘道」の地に「弘道小学校」は無く、「西綾瀬」に「弘道小学校」はある。


中央本町 1丁目〜5丁目

足立区の中央に位置するから「中央」、しかし、東京都内の他区に「中央」の名があり「中央本町」とした。現在は日光街道に面して、高層ビルの区役所が建ち、一躍、名実共に足立区の中央になった。明治初めの地図には区役所あたりは「入会地」となっており、昭和20年代までは「ヤッカラ」と呼ばれた耕作に適しない荒地が多く、「ススキや蒲」が生い茂る土地が多く見られた地区です。


扇 1丁目〜3丁目

旧町村制時代の「西新井・本木」と「江北・沼田、宮城」にまたがる区域。地形が北を要に南に広がる形が「扇形」であるために「」と名付けられた。扇と言うのは、古くから「末広がり」と言って、未来が明るく展望出来ると、縁起の良い名前なのです。
江戸時代から「せり」が特産とされてきたが、同じ湿田では「蓮の花」を栽培し、お盆の時期に市場に出荷している。


椿 1丁目〜2丁目

住居表示によって表に出た地名。江戸時代から「字」で用いられていた地名が新しい町名になった数少ない例。「椿」という地名は江戸川区・埼玉県庄和町、などにもあり、「地名」にはよく用いられるものと思われるが、はっきりとした「地名語源」はわからない。



東和 1丁目〜5丁目


町の南側を足立区と葛飾区を分ける境界がある。「古隅田川」と呼ばれ、現在も流れがある。鎌倉時代は利根川の本流にあたり、河川の氾濫原であった土地で、かっては「千住葱」の栽培が盛んであった。東和商店街に庚申塔の「道標」があり、(成田道・飯塚の渡し、千住)の方角が示され、千住から伊藤谷橋、綾瀬駅北、を経て東和商店街から中川の土手に出て「飯塚の渡し」に出る古い道がある。(現在も所どころ切れているが辿れます)
「旧東渕江村」と呼ばれていた地区だったので、その「」をとり、地区住民がやかにとの意をこめて「東和」となった。


中川 1丁目〜5丁目


足立区の再東南端にあたり、最寄り駅が亀有ということもあり、なじみが薄い土地である。かつて広大な工場があった土地は東京都の下水処理場となり、一部は公園として利用されている。
町の東側に「中川」が流れており、「中川」と命名にはどなたも異論ないでしょう。

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消えた地名がバス停に残る


「足立マップ・交通案内図」のバス路線を追って見ると、路線は「北千住」「西新井」「竹の塚」「綾瀬」の各駅が起点になり鉄道不便地区へ向かいます。どんな「停留所名」があるか目を凝らすと、**町○丁目という停留所が目をひき、当然、○○学校前を含め公共施設名も多い、「
消えた地名」はどの位、バス停に使われているのか興味津津でしたが、思惑が外れ、少なくてビックリ、
・(北47)北千住駅から竹ノ塚駅の間に「
弥生町」・・
・(竹07)竹ノ塚駅から「伊興町
吉浜」・・
・(北11)通称花畑バス・・
桑袋・外河原・下沼駐在所・榎戸二ツ家・四ッ家・末広・高砂・・。
吉浜・桑袋・外河原・下沼」は古くから使われていた耕地名、
二ツ家・四ッ家」は昭和7年区制発足によって生まれた町名、
弥生・末広・高砂」は昭和6年千住町の地番整理により誕生した
考えてみれば東京オリンピック前(1964)バスが走れる道路がどれほどあったか?

地名というか通称のようなものとして、(竹14)・竹ノ塚駅から桑袋団地行きに・・・大曲・水神・・・・・・・

戦後の40年代までは、堤北(荒川以北)は一部を除き、農業が主産業だった為、農業用水路が網の目のように流れていた。その後、高度経済成長による市街化拡大により、用水路は区画整理で埋められたり、道路に拡幅された。用水路は失われ橋も消えてしまったがバス停に「
橋名が残って」いるところが幾つかあります。
・(竹07)竹ノ塚駅から舎人・入谷方面行き・・赤山街道沿い・・「
観音橋・聖一の橋・はんの木橋・古千谷橋・西門寺橋」・・・
・(竹14)日光街道の竹ノ塚駅入り口に「
増田橋」・・・・・
・(王40)西新井大師から江北橋へ向かう「大正道路」に「
阿弥陀橋」・・・など

昔懐かしい響きのバス停・・・(草41)梅田町から出る浅草寿町行きの・・・赤不動・放水路土手下
赤不動は梅田の明王院、梅田の地名の起こりを伝える寺院・・・放水路は荒川と呼び名が変わった。

・(新04)・・・西新井駅から鹿浜都市農業公園行きで・・・「鹿浜用水・・・農業公園と昔の農村を思い起こす面白い命名である

(北01)・・・北千住駅から西新井橋を越えて西新井大師行きで・・・{本木新道・スタンダード前
本木新道は大師道に新道が出来、地域の発展を期待する意気込みと、その時代(明治時代)が感じられる。
スタンダード前は足立区では企業名が付いた珍しい例


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時代を映す、場所、ランドマーク
庶民は命名の達人



足立区を一番印象付ける場所はと、問われて、何を、何処を思い浮かべますか?北千住、西新井大師、千住大橋、荒川。
一昔前ですと「お化け煙突」が有名であった。「
お化け煙突」とは洒落心があってだれでも印象深く忘れないネーミングだと思う。大正末期に完成、映画や写真の被写体に「足立区のPR」に貢献した。(お化け煙突の謎解き)

江戸時代から続く千住の「市場」を「
ヤッチャ場」という、いつから、そう呼ばれていたかは不明。国語辞典に「セリ市での掛け声」、「東京で青果市場のこと」と出ている。今では、メジャーな名前
天狗の鼻」首都高速・中央環状線・板橋-足立線の荒川橋梁が完成し「五色桜橋」と命名された、その「五色桜橋」の近く、隅田川の、北区側が足立区側に突き出た所。荒川放水路を掘削する際、「鼻のテッペン」を削りとってしまい、いささか「低い鼻」になってしまったが、河川が湾曲した部分をその形から、「天狗の鼻」と呼ぶ。自然が作り出した地形で、地図を広げて見ると、なるほど、と、納得できるネーミングである。
熊谷堤を「
桜土手」・・桜の木が植えられていたから.。現在は僅かに土手の形が残り、「千住桜木」として地名で昔を偲ぶことが出来る
熊谷堤」とは、埼玉県熊谷から荒川の水除け堤として、足立区域(千住)まで繋がって、集落の、屋敷地、耕作地を守って来たものと伝わっている.。後北条氏が築いたとも言われているが、荒川が現在の流路に定まったのは、江戸時代になってからである為、にわかには、信じられないが、記録が無いので、はっきりとした事は解らない。
今は「垳川」・・通称「
溜めの川」・・江戸時代から農業用水の溜池として使用。(ちれきみん・第1集・E平成泉橋百七十年ぶりの仲直り)

デエッサマ」・・・西新井大師・・・大師さまに続く道が区内には多くあり、「東」「北」が付く大師道、くねくね曲がっている道から「七曲り大師道」。これは区内が農村であった時代の言い方で、区画整理などで殆んどは失われた。
大曲」・・旧日光街道・・・竹ノ塚の「清掃工場」の先。古い河川の自然堤防に多い地名。東綾瀬「下河原公園」の南、常磐線を越したあたり、葛飾区になるが「大曲」と呼ぶ。
六月町にあった「
縁切橋」・・・今は区画整理でなくなってしまったが、短編小説「水神橋」(吉野孟彦・著)に語られている。
赤門寺」・・・千住の勝專寺。「赤不動」・・・梅田の明王院。いずれも、その見た姿、色から・・・・俗称・通称の名付け方は、直感的に見て素直に捉える名称は誰にでも受け入れられて長続きするものです。
寺町」大正大震災の後、東京の都市計画により、東京郊外に転出した寺院が集まった地区を指す。足立区伊興の寺町には、「江戸・東京」での著名な寺院が多く移られ、徳川五代将軍の生母「桂昌院」・法受寺、芝居でお馴染み「塩原太助」・東陽寺、「花川戸助六・揚巻」・易行院、などの墓があり、足立区の史跡めぐりのコースになっている。

テト馬車」・・保木間の増田橋から千住町の間を「テト・テト」とラッパを鳴らして走った「乗合馬車」。大正時代の話。
かんかん踏切」・・・テト馬車と同じく「音」を聞いてのネーミング。東武線・西新井駅〜竹ノ塚駅の間。
ダンダン橋」・・北千住の「大踏切をまたぐ」歩道橋、鉄骨、木製板張りで歩くとダンダン(ドンドン)と音がするから、戦前からあった。その当時は東京都内でも何箇所も無い、珍しい「人道橋」。現在は新しく作り換えられている。(鉄道アラカルト)ダンダン橋

戦時中から戦後にかけて呼んだ「
戦車道」、現在、大谷田陸橋から綾瀬新橋に通ずる道、現在の大谷田住宅団地にあった「日立製作所」で戦車を作っていて、その道を走る(通る)事から名付けられた。コンクリートの真っ白な道、区内で舗装道路は珍しかった。
汽車長屋」・・通称の通称が「ポッポ長屋」・・千住八千代町(足立4丁目)のロータリー近くの日光街道沿いに建てられていた、平屋の賃貸店舗、汽車のように店舗が長く連なっていたから。本屋さん以下10店舗程の店が並んでいた。千住の市街が拡大し、住宅が増えてきた為、近くには商店がたくさん生まれた。今の人達だったら、なんとネーミングするだろう。
三角屋敷」・・・中川3丁目3番の地形が三角の地点をそう呼んでいた。「イボ取り地蔵」さんの近くで、子ども達の遊び場であり東渕江小学校へ通う時代の集団登校の集まり場所。
どうけ・・どうけ道」・・・・・青井の四ッ家交差点から、栗島中学校の間が、「戦車道」と同様にコンクリート舗装されていた。都営中央本町5丁目アパートは戦時中は「航空機材」という軍需工場であった。真っ白なコンクリート道はここしかなく、子供の頃「どうけ」とは、こういう道路を指す物と思っていた。ベーゴマを磨いた思い出の道。実際は江戸時代以前より続く古道(道街道)、千住から四ッ家・保木間・水神橋と続いていた。途中が区画整理でズタズタ
十三間道路」・・・・巾が13間である。千住新橋から水神橋の間(現四号国道)、戦後暫く、道路の中央が無舗装だった。昭和9年に千住新橋が架かり、都電が千住から延伸されるといわれていた。戦時中には、飛行機の滑走路になる(航空機材が近い、などとも、本気で囁いていた。「
梅島陸橋」現在は、高速道路そのものが「橋の連続」といえる程、高架道路が日本全国を一本の橋」となって連なっているが、戦後の30年代までは、主要都市のごく重要な場所でしか「陸橋」は無く、殆んど、鉄道と道路は「地上交差」=「踏切」によって道路は鉄道を踏越していた。足立区の「梅島陸橋」は東武鉄道を跨ぐ「東京名所?」の一つとして、「陸橋」と言えば「梅島陸橋」を指していた。現在は、東武鉄道が高架になり、「梅島陸橋」とは(環七が国道四号線)を跨ぐものを指すようになった。
シベリア」校舎・・・区立十一中の戦後の校舎。バラック(簡易な急造、貧弱な建物)。床は所々抜け、ガラスは(現在の網戸にセロハンを張ったようなもの)。冬の北風には、ピュ-ピュ-と隙間風が入り、とても寒くて困った。厳寒の地、ソ連(ロシア)のシベリアをイメージしたもの。
ダッチュウ(中)」・・足立学園・中学校の俗称。足立区にある、私立の唯一の男子学校

目玉ランプ」・・・首都高速道路の環状七号線への出入り口。ループ式ダブルデッキの構造。航空写真で見ると、二つ、ループ状に丸く見えるので、そう呼んでいるのでしょう。
清水村」・・・谷中4丁目・地下鉄の車両基地を建設中に名付られたと言う。広い田んぼの中で始まった工事で、不便極まりなく、蔑む意味合いがあったのでは?。工事の建設主体である「会社名」から生まれたもの。

特定の場所を示す呼び名は、その命名の「時代」を、よく著していると、思いませんか?
名前を聞いただけで、何処であるか、何であるかを、瞬時に思い出せる。そんな「ネーミング」が永く、永く、使われ、言い続けられるのでしょう。

竹ノ塚駅近くに「かりん道路」「彫刻の道」などと言う「道」があるが、それは「俗称」「通称」でなく立派に「道路名」として表示されており、商店街名などでは、また、楽しい名前で呼んでいるところが沢山あります。
他にも、珍しい、楽しい、微笑ましい、ネーミングの場所を見つけ探索しよう。

(足立風土記稿・郷土博物館・刊)を一部参考にしました。

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