ちれきみん Y
歴史 T
| 1 | 利根川の舟運と日光道中 |
| 2 | 窮民を助けた千住の米屋 |
| 3 | 浅草寺境内の濡れ仏 |
| 4 | 足立の民家 |
| 5 | 千住馬車鉄道 |
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利根川の舟運と日光道中 利根川、江戸川、元荒川、綾瀬川・見沼代用水など、足立区に密接に関係する河川について、改修の歴史が詳しく述べられている「利根川」(埼玉新聞社・本間 清利・著)で目にとまった資料の様子を見た。 「江戸川の舟運」の中で、(大沢・福井家「往還諸御用留帳」)を解説してますが、東北地方の荷物や人が鬼怒川の「阿久津〜久保田」陸路・「境」へ「関宿」から江戸川を下る為、日光道中を利用する客は大幅に減り、困った沿道の「千住〜栗橋」間の七ヶ宿が連署で奉行所に訴えている。境では、古河宿から脇往還を作り運賃表を配り旅客を集め、船は雨除けをし、船中には茣蓙を敷き、座布団や寝具用の貸し蒲団も用意した。夕方境から関宿の関所で手続きを済ませ、出航、野田・松戸・市川を過ぎ夜が明けると、今井で河岸に上がり、準備された朝食を済ませ小船に乗り換え「日本橋・小網町」に着く。まるで現代版「ブルートレイン」で旅行しているようだ。訴えによって「河岸問屋」を取り締まっても効果は薄く、道中宿場は「商人荷物・一般旅人」を巡って、「舟運」との競合関係にあり、「客・荷」が激しく奪はれて宿場が衰退するが、その後、明治維新以後は、鉄道によってその「舟運」も「街道宿場」も大打撃を受け、物流の主役が大きく鉄道へと変化するのである。 埼玉新聞社「利根川・本間清利・著」より |
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窮民を助けた千住の米屋 矢田挿雲が、大正四年から報知新聞社で社会部記者として連載した「江戸から東京へ」の中で、千住の米屋が男振りをあげたと言う「江戸時代の米騒動」の話。 江戸の騒ぎは、五千名の暴民が、約二十四組に分かれて、殆んど全市の全米屋を荒らしまわった。天明七年五月十八日、本所扇橋辺及び深川六間堀の玄米搗米屋を破壊が始めで、浅草蔵前の札差業者は稼業柄、もっとも手痛くやられ、十八日から十九、二十、二十一、と続き、山谷、千住、坂本・三ノ輪、駒込、巣鴨、へ抜けて二十二日やっと平定。幕府は城内に町奉行、作事奉行、勘定奉行、寺社奉行の総動員を行い、三十六見附には小頭を警戒に当たらせ、戒厳令の有様となった。 殆んどすべての米屋がうち破られた中で、千住ニ丁目「伊勢屋長兵衛」は助かった。前年六月十二日ないし十七日の大洪水に、日本堤の上へ臼を持ち出して、玄米を搗かせ、窮民に施したので、暴民はその事を思い出して「命の恩人」だからよせ、よせ、と、害を与えなかった。 矢田挿雲は米屋の名前入りでこの様子を書いていますが、残念ながら記録(資料)がなんであったかは記されていません。 中公文庫より |
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浅草寺境内の濡れ仏 本堂に向かって右手前に、石垣の築地の上に大きな二体の金銅仏が祀られている。観音、勢至のニ菩薩で、高さ2・4メートル、蓮台共で4・5メートル。この仏像の「再興・願主」が千住の人・高瀬奥右衛門という人である。説明版によると、日本橋伊勢町の米問屋成井家の旧番頭・高瀬善兵衛が主家の没落を悲しみ、発願して貞享4年(1687)造立したものであるが、高瀬善兵衛は上野国館林大久保の人。 安永6年(1777)に施主・高瀬仙右衛門(上野国館林大久保の人)、願主・高瀬奥右衛門(武州足立郡千住の人)によって再興された、と記るされています。館林の高瀬家と千住の高瀬家は姻戚関係と思われますが、はっきりした事は判りません。あれだけの仏像を寄進するには相当の資産家でなければ出来るものではなく、主家に対する悲しみ、報恩の気持ちが大変大きなものである事が感じられます。 また、発願造立から90年経って再興した人たちは、高瀬善兵衛の気持ちをこれほどまで永く持ち続けることが出来たものは何だったのでしょうか。 |
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足立の民家 一般的な足立の民家では「寄せ棟」「萱葺」「田の字型の間取り」「間口7〜8間・奥行4〜4.5間}、この建物のように瓦葺の軒庇がつく家と萱葺屋根が軒まで葺き下ろされた家と外観上は2種類が主な建て方であった。 江戸時代に幕府の命により江戸近郊を調査し、書かれた「四神地名録」(古河古松軒・撰)によると、「荒川を越え足立郡に入り、民家のもやふを見しに、上方中国筋の風土よりまさりしやふに見え、貧しく見ゆる百姓一家も無く・・・・屋根を葺に、もの入りをいとわずして、丈夫に棟を包む、・・・豪族と称ずべき冨饒の者一家も見へざる・・・・江戸近なるゆへに銭もふけもやすく、、、、」と述べ、江戸に近く金儲けが易しいが、江戸風俗になれて金遣いも多くなり、稼いでも、出費が多いために豪家が出来ない、と見ています。止宿した名主宅では、座敷に額を掛け、書籍、碁盤、・・風雅だと。 人口の多い江戸に近く、農家としては換金作物を作付け、市場に出して、比較的安定した農業経営が行われ、江戸の町風俗を取り込み、結構(粋で贅沢)もしていたように見受けられます。 写真は足立区文化財調査報告書・古民家編)より |
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千住馬車鉄道 明治維新により日本に鉄道が導入されると、時を同じくして都市交通機関として「馬車鉄道」が誕生、発達を遂げる。しかし、明治30年代首都東京では、その地位が「馬車鉄道」から「電気軌道」に変わり、地方交通手段として「馬車鉄道」」は展開されて行くのである。明治22年、日光街道沿いの幸手、杉戸、春日部、越谷、草加などの各町村は土地肥沃米穀豊饒人家稠密、の小都会で商工業上の貨物輸送は馬車や中川、綾瀬川の舟運では貨物が停滞してしまうので、幸手から千住仲組迄「馬車鉄道」」を敷設したいと願い出るのであるが、千住や島根、保木間など足立区域の人が反対した。その理由は千住では道路が狭い、青物市場があり、馬車、荷車、が多く、橋戸河岸からは材木、竹、薪炭が上がり、人口が多く混み合って危険だという。という事で、千住の中心地・千住仲組から千住の北の入り口「茶釜橋」で決着した。明治26年開業、滑り出し好調でしたが3年もすると経費が嵩み乗車収入が伸びず、貨物収入は少なく、営業収支がじり貧になる。経費の中で「馬糧費」35パーセント、「人件費」30パーセントではとても利益が出せず、業務縮小、運賃値上げ、路線短縮、など経営改善策を講じるが、ついに明治30年6月営業廃止を願い出る。営業は僅か4年で廃止に至ったが、その背景には「東武鉄道」の設立が計画され路線が競合するため脅威に感じた為、そして、最初から千住の人たちからは反対が出たり、会社への出資者が少なく、設立には後向きであったのです。 春日部市教育委員会「春日部市史別冊・千住馬車鉄道」より |