足立史談かるた
| 足立区の歴史、地理、民俗と名所、旧跡、行事、言い伝え、 |
| いろは48枚の札の内、あなたは何枚の札をご存知ですか?20枚、30枚それとも40枚、30枚以上知っていたなら、あなたは足立の歴史通です。さあ挑戦してみてください |
| @ | い | ろ | は | に | ほ | へ | と | ち | り |
| A | ぬ | る | を | わ | か | よ | た | れ | そ |
| B | つ | ね | な | ら | む | う | ゐ | の | お |
| C | く | や | ま | け | ふ | こ | え | て | あ |
| D | さ | き | ゆ | め | み | し | ゑ | ひ | も |
| E | せ | す | ん |
| この足立史談カルタは足立史談会・第二代会長・勝山準四郎氏が作成し機関紙「足立史談」第95号に発表したもので、そこから転載し、ミニ解説をつけました。 足立区の歴史、地理、民俗と名所、旧跡、言い伝え、等、興味深い内容で、小・中学生の郷土研究に用いる事をお勧めします。 |
| @ い〜り |
| い | 市場のおこりは河原町 | 大消費都市「江戸」へ青果物を納めた「青物市場」が今から400年も前に始まりました(俗称・ヤッチャ場という) |
| ろ | 六月村の炎天寺 | 源 義家の伝説が残り、「小林一茶」が詠んだ俳句の地、現在は11月23日の「一茶まつり」で有名な俳句寺 |
| は | 初午に千住絵馬 | 東京にただ一軒残る「絵馬や」さんで描かれている 特に初午の日には稲荷様に「狐」の絵馬を奉納する |
| に | 荷物は貫目改所 | 奥州街道(日光街道)の宿場であった「千住宿」に設置されていた街道の役所、現在は石柱が建てられている。 |
| ほ | 星兜出た応現寺 | 伊興の応現寺から出土した平安時代」の「兜」。現在は東京国立博物館に保存。足立郷土博物館にレプリカ展示 |
| へ | 蛇橋かかる綾瀬川 | 伝説に残る「蛇橋」現在は取り壊され、親柱が足立郷土博物館玄関横に展示されている |
| と | 酉の市には大鷲神社 | 毎年11月の「酉の日」には参道の両側に出店が沢山並び大勢の参詣者で賑わいます |
| ち | 茶釜をほめた吉宗公 | 将軍「吉宗公」が千住宿で休憩し店先にある「茶釜」を見てその素晴らしさを誉めたという。江戸名所絵図にも載る |
| り | 俚謡で名高い千住節 | 江戸時代から大正時代まで江戸〜川越の間を行き来した「川越夜船」で船頭たちに歌われた。 |
| 2 ぬ〜そ |
| ぬ | 沼田はむかし御神領 | 江戸時代沼田村(現・江北地区)は寛永寺領に属し、比較的軽い税負担であったという |
| る | 留守番をした猿仏 | 栗原にある民間伝承に「猿仏塚」の話があります |
| を | はせを(芭蕉)翁矢立はじめの地 | 俳聖「松尾芭蕉」が奥の細道の第一歩を踏み入れた「千住の地」、大橋公園に「矢立はじめの句碑」が建つ |
| わ | 別れる道は水戸街道 | 奥州街道(日光道中)から千住宿で水戸佐倉道が分岐されている。その分岐点にあった「水戸道」の道標が博物館に移され屋外展示されています。 |
| か | 金仏まつる安養院 | 新編武蔵風土記稿に土中から掘り出した阿弥陀尊を御本尊に祀ったという。本堂前には「芭蕉」の句碑もあり |
| よ | 四ッ家二ツ家一軒家 | 現在の「青井地区」は四ッ家、二ツ家と永く使われた地名、開拓当時、家数が4軒・2軒と少なかったからつけられた |
| た | 大師の釣鐘アメリカ帰り | 西新井大師の梵鐘は「戦時供出」により出されたが昭和30年無事に戻ってきた |
| れ | 霊木着いた熊ノ木圦 | 六阿弥陀伝説の地「熊ノ木」の「イリ」、紀州から霊木が流れ着き、その木で「阿弥陀仏」を刻みお祀りした |
| そ | 草加は次の宿場町 | 奥州街道初宿は「千住宿」隣が埼玉県に入り「草加宿」 |
| 3 つ〜お |
| つ | 堤築いた石出掃部 | 墨堤通りを「掃部(カモン)」堤という。石出(掃部吉胤)という人が千住に移住して開拓、土堤を築いた |
| ね | 葱は名物千住葱 | むかし千住は砂地で「葱」の栽培が盛んでした、現在まで取引する「市」が続いており、千葉県から荷が届く |
| な | 名倉は千住の接骨医 | 名倉(ナグラ)と呼ぶ、接骨の「代名詞」、木から落ちたり、ころんで怪我をすると「ナグラ」で見てもらえという |
| ら | 落語家円朝の石灯篭 | 千住の源長寺に「三遊亭円朝」寄進の灯篭があります。喉を傷めた円朝が法力により全快し感謝して寄進した。 |
| む | むかし新田十三ヶ村 | 江戸時代開発された「田畑」を新田(シンデン)という、綾瀬川の西側、東側、今でも地名、学校名に残る鹿浜の新田 など、むかしは「xx新田」とよばれていた |
| う | 唄に残った川越夜船 | ”ハア−千住女郎衆は、木の裏雀、お客めがけて飛んで出る” 三十石船で上り三日、下り一日の航路を荒川、新河岸川を川越まで往来した。 |
| ゐ | 井戸を掘り厄病退散弘法大師 | 西新井大師の起こりと伝説に残る「閼伽の井戸」本堂の前少し西側に屋根が葺かれて今もあります。西新井大師は「厄除け」として有名 |
| の | 飲みに飲んだり酒合戦 | 1815(文化12)年千住の飛脚宿「中屋」の隠居「中六」の還暦祝いに酒合戦を催した.。記録によると合計九升一合をのんだ人あり、まさに「鯨飲」だ |
| お | 御成橋は国土安穏寺 | 島根にある古刹、「おなり」とは将軍が休息やお泊りにお出のこと。安穏寺は度々将軍が鷹狩のときお休みされたので、そのとき渡られた橋を「御成橋」呼ぶ。 |
| C く〜あ |
| く | 熊谷堤は古い道 | 荒川の水除け堤、熊谷宿から続いているというが、名は残っているが、築かれた経緯がわからない |
| や | 槍かけ松の清亮寺 | 水戸光圀公がここを通る時、槍を掛けて休んだ所から「槍かけの松」という。千住宿から分かれて、少し行くと水戸街道に面して清亮寺がありこの門前にあった |
| ま | 松の名樹は苗間戸稲荷 | 区内初の東京都から指定された「くろまつ」の「保存樹、昭和30年ごろは竹ノ塚駅付近からも望見できた大木 |
| け | 源氏ゆかりの白旗塚 | 源 義家の伝説が伝える「源氏」の白旗を掲げたという古墳。現在は足立区の史跡公園となっている。 |
| ふ | 笛の音さえる島根はやし | 島根は芸能が盛んで、以前は歌舞伎もおこなわれていた。神代神楽、お囃子が11月の酉の市に演じられる。 |
| こ | 甲良屋敷は今学校 | 千住第四小学校は日光東照宮を建てた「大棟梁」甲良家三代宗賀の別荘があった所で、碑文が校庭に残っている |
| え | 江戸を出て日光道中初宿場 | 慶長年間に人馬継立場になった。家康が亡くなり日光に東照宮が造営されると、交通量が増大し千住宿は整備され重要な役割を担うようになる。 |
| て | 手ならい寺子屋正法庵 | 中川三丁目の正法庵には寺子屋としての記録や、当時使用された机、手習本などが多数のこっている。 |
| あ | アメリカに渡った五色桜 | 国指定名勝にもなった「江北の五色桜」を明治45年東京市長尾崎行雄氏がアメリカにこの苗木を送った。 |
| D さ〜も |
| さ | 佐竹稲荷は屋敷跡 | 梅田6丁目の九中の南側一帯は佐竹侯の抱屋敷だったという。秋田から参勤交代の折などの休憩に利用された。永く稲荷様で初午祭りが行われてきた. |
| き | 木余如来と足立姫 | 伝説「足立姫」のお墓がある性翁寺には六阿弥陀(六体)の余り木で刻まれた「木余如来」様がおわします |
| ゆ | 往きも帰りも渡る大橋 | 大動脈日光街道(4号国道)は最重要の千住大橋無くして足立区の住民の生活が成り立たない |
| め | 目もらんらんと赤不動 | 梅田の明王院は如意輪観音像が都の有形文化財に指定されているが、むかしから不動堂が朱塗りの為「赤不動」と呼ばれてきた. |
| み | 見沼代用水で米づくり | 延々60km、利根川から引かれ足立の田を潤してきた見沼代用水、いまは親水公園に生まれ変わる. |
| し | 鹿浜に残る獅子舞 | 鹿浜で毎年9月に奉納されている。中学生を中心に、むかしは五穀豊穣に感謝、今は健康祈願、家内安全 |
| ゑ | 画でも名高い建部巣兆 | 足立千住に住んだ「俳諧と画家」の大文化人。酒井抱一、亀田鵬斎など超一流の江戸文化人と親交があった |
| ひ | 広重の眠るお墓は東岳寺 | 浮世絵の安藤広重がホッパーとともに眠る。 関東大震災後足立区伊興に移ってきた。 |
| も | 森鴎外の大正記念碑 | 大正時代に盛んに新しい道路が造られた。その記念に建てた「大正記念道碑」の碑文を撰文した鴎外 |
| E せ〜ん |
| せ | 関屋の里の片葉芦 | 鎌倉時代に関所があったという「関屋」は江戸時代に七不思議の一つ「片葉芦」の話が伝わる。 |
| す | すぐれた彫刻舎人の氷川社 | 本殿外側には神話を題材に八岐の大蛇退治、天岩戸開き、天孫降臨など他、上り龍、上り龍は見事 |
| ん | 新撰組(しんせんぐみ)は五兵衛新田 | 幕末近藤勇は現在の足立区綾瀬に何日間か屯した。その後流山に逃れたが掴まり、のち板橋で処刑された。 |