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足立のちれきみん第八集

66 四ツ家の大榎
67 三遊亭円丈さん奉納の狛犬
68 足立区第一号・区画整理事業
69 村役場の建物
70 青石(板碑)の石材採掘遺跡

四ツ家の大榎












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四ツ家(弘道・青井付近)の大榎
下妻街道(大原道とも言う)という道が、江戸時代から千住の宿場の北はずれで、日光街道と分かれて、現在の荒川を越して五反野駅・四ツ家交差点につながっていた。その道は、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代に既に古道とよばれていて、四ツ家交差点より北に真っ直ぐ保木間・水神橋と続いていたと、いい、地元では、「どうけみち」と呼んでいた。その古い歴史を偲ばさせていた(大きな二本の榎)が昭和30年代まで残っていた。
地元の
書家(後藤大学)氏が描いていたものが、左の(絵画)です。四ツ家の交差点より五反野駅方向へ150メートルの所。.向かって右方向が五反野駅、大榎の手前側が僅かに見える用水路、大榎とお店の間が(どうけみち)、お店は古くから(付け木屋)と呼ばれ、七輪で火をおこす時の必需品である(付け木)を商い、街道を通る人々を相手に茶菓を出す(立て場)だった。
この絵画は活字でお判りの通り、「四ツ家自治会」名簿です。昭和33年9月、台風22号により大洪水になり、四ツ家付近は全戸床上浸水の大被害を蒙った.。1945年の終戦時、GHQによって町会解体を命じられ、そのままになっていたが、この被害を受け、地区が団結し、昭和34年に自治会を結成したところでした。その名簿の表紙に役員さんでもあった(後藤大学)氏の絵画を使用したのです。
大榎は深い用水路のぎりぎりに立っていて後側にまわるのが怖かった。直径が一メートル以上もあり、こどもが三人以上でないと抱えられないくらいの太さでした。その当時は。四ツ家あたりでは一番の太さ(古木)の木であったと記憶している。用水路を埋めた時に.区役所の土木課で切り倒したときいたが、どれほどの年輪を刻んでいたのか知りたかった。千住の一里塚から直線で約二キロメートルにあたり、街道に意識的に植えられたものと考えられる大榎であり、
古道(どうけみち)を物語るものだった。









三遊亭円丈さん奉納の狛犬 三遊亭円丈さん奉納の「狛犬

新作落語でお馴染みの「三遊亭円丈」さんが、平成十二年四月、綾瀬稲荷神社に奉納した、「阿」「吽」の一対の狛犬さんです。円丈師匠は足立区六町にお住まいで、「狛犬」の大研究家でもあります。インターネット上でも、本業の「新作落語・古典落語」以外に多芸振りをご披露しており、特に「狛犬研究」には並々ならぬ想い入れを感じます。千住の源長寺には、「怪談・牡丹灯篭」で有名な「三遊亭円朝」寄進の石灯篭があるが、この「三遊亭円丈」奉納の「狛犬」も五十年も後になると、文化財として、「円朝」とならび称されることでしょう。
円丈さんの「
狛犬研究会ホーム・ページ」は綾瀬稲荷の歴史や年間行事などもリンクされていて魅力あるホーム・ページです。


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足立区第一号区画整理の記念碑
関屋公園に立つ記念碑    










足立区第一号・区画整理・関屋の記念碑
                        
関屋は平安時代の和歌にも詠まれ、鎌倉時代には「関所」が設けられたという歴史的な土地であり、江戸時代には「江戸名所図会」に風光明媚な地として紹介されてきた。大正14年「関東大震災帝都復興計画案」によって、工業地区に指定された。昭和10年代に、軍需産業が抬頭しはじめ、その機に地主の方たちが相談し、土地区画整理組合を企画した。
工事は、鉄筋コンクリートで護岸を築造し、隅田川の川底の砂をサンドポンプで揚げ、その川砂を、整理敷地内に敷いた線路をトロッコで運び敷ならした。一面の田んぼや葦原は立派な道路、公園、学校を始め、工場用地、宅地になった。
その後、の区画整理事業の様子を下にしめします。
地区画整理事業一覧(第一号から第十号迄を表示・現在も事業は続いています)
組合名 施行区域 事業経過
1 千住関屋 千住関屋の大部分 S11年−S26年
2 梅島 梅島一丁目と梅だ七丁目の各一部 S12年-S24年
3 南宮城 宮城一・二丁目 S12年−S26年
4 新田 新田一・二丁目と三丁目の一部 S12年-S35年
5 大谷田 中川一〜五丁目の各一部 S16年−S35年
6 蒲原・北三谷 東和四丁目・一〜三丁目の一部 S19年−S35年
7 大谷田第二 東和五丁目、谷中一・二丁目と
大谷田三・四丁目の〉一部
S19年−S35年
8 西新井第一工区 西新井一・ニ・四・五・六丁目の各一部 S20年-S45年
9 綾瀬第一工区 綾瀬二丁目、一丁目と小菅四丁目の一部 S34年-S45年
10 北三谷 東綾瀬三丁目、綾瀬一。二丁目と東和一・三丁目の各一部 S34年-S47年

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旧東渕江村役場の建物 旧東渕江村役場の建物

中川三丁目三番六号に建つこの建物は、
昭和七年、東京の市郡併合により、足立区誕生の際、東和五丁目にあった村役場であり、地元の有志に払い下げられて、この地に移築されたが、その後、町内会の集会場として使われている、古い建物である。
戦前の木造家屋は区内でもかなり少なくなって来ており、一般民家でないので、流行の街角ウオッチングをするには恰好のターゲットとしてお薦めです。




















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秩父青石の採石遺跡 青石(板碑)の石材採掘遺跡

埼玉県秩父郡長瀞町大字野上の山腹に、この遺跡はあり、埼玉県の「旧跡」に指定されている。説明文によると、緑泥片岩は、普通秩父青石と呼ばれ、すでに縄文時代の石斧や、石皿、古墳時代には主として石槨等に用いられている。鎌倉時代には、供養塔の一種として発生した板石塔婆に石材が適した為、大いに利用され、関東の青石塔婆として全国的に有名である。石切り場と呼ぶこの採石場跡は、当時の採石の様子をよく残している。この遺跡へ登る、入り口の秩父往還の直ぐ傍に「日本一大きい青石塔婆」が建てられています。この石材も勿論、この採石地から掘り出されたと、地元に残る古文書が伝えています。秩父、長瀞、を経て秩父往還と平行して流れてきた荒川が、流れくだり、江戸時代以前は熊谷から行田、吹上、鴻巣、川里、菖蒲、桶川、蓮田、白岡、岩槻、越谷、八潮、の各市・町を経て足立区に通じていた。荒川は,長い歴史の中では、綾瀬川の河道を本流としてきた、とも言われ、青石塔婆が盛んに用いられていた時代は、秩父と足立区は現在の、隅田川筋でなく、区の北側から流れ、多くの物資と共に文化・文物も行き来し、筏に乗せられ青石が運ばれと考えられます。区内に存在する「板碑」は約200基、確認されていますが、そのほとんどが秩父産の青石と思われます。





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